人には忘れられない瞬間がある。

「もしかして自分は天使なんじゃ無いかとか思ってない？」
「まさかー」
「冗談冗談」
「でもサキエルって、他にツァドキエルとかザドキエルとか言われてて、慈悲と慈愛、記憶の天使、そして主天使の指導者なんですって」
「やっぱり自分の名前の由来の天使には詳しいね」
「調べましたもん。あと、神による真の統治を熱望し、天使の務めを統制する、天界の行政官。神の言葉をあまねく宇宙に知らしめる為に活動して、森羅万象に関わる命令を請け負ったりするとか」
「うわー、なんだか君こそオタクじゃないの？」
「あはは。そうかも知れないですね」
「だけど、不思議な存在だよね」
「だから惹かれるのかも知れないです」
「天使の務めを統制する…か。なんだか凄い天使だね、サキエルって」
「慈悲と公正の天使ですからね」
「幸恵さんも慈悲深い？」
「うーん…どうだろう？　判らないです」
「記憶の天使だとしたら、僕の記憶も操作しちゃったりして」
「えー。なんでですかー」
「はははは」
「ひどいなー」
「はははは」
「あははは」
　幸恵と一緒に笑ったこの時を忘れる事はないような気がした。そう思えるくらい楽しい時間だった。
「楽しいなあー」
「ホントですか？」
「最近は学校の友達も課題に追われて、ちっとも見舞いにも来ないからさー」
「そうなんですか。じゃあ毎日一人なんですか？」
「病室の人と話したり、ナースと話したり…かな？」
「私、毎日来ても良いですか？」
「え？」
「私なんかじゃ、そんなに話し相手にならないかも知れませんけど」
「…や。いやあ、そんな事ないよ。嬉しいなー」
　正直複雑な心境だった。さっき話し始めた間柄じゃないか。楽しい子だけど、俺は君が誰なのかも、そして君も俺の事を知らないくせに。
「迷惑ですか？」
「迷惑じゃないけど…。学校とか大変なんじゃない？　それに俺、ナースに仲良い人いるから、ずっと黙って一日過ごしてる訳でもないしさ」
「彼女…さん？」
「いやいや。全然違うよ。ただの仲の良い人。曾根崎さんって言って、面白い人でさー」
「……そうですか」
「本当に来てくれるなら大歓迎。病院ってホント暇で困るしね」
　俺は焦った。何を焦っているのか。
「なんだか、お兄さん…みたいな、そんな人になってほしい…」
「え？」
　なんなんだ、この子は？　積極的なのか非常識なのか。
「そ、そうだ。それより、どうしていつも朝、門の前にいるの？」
　俺は慌てて話題を変えようとした。しかし、その次の瞬間、幸恵は冷たい表情になり静かに立ち上がった。
「私、もう帰らないと…」
「え？　あ。そ、そうだよね。もう随分経つよね」
　どうして慌てる？　俺。
「それじゃあ、時間ないから此処で」
　幸恵は左手の裾をめくり、時計を見るような仕草をしながら、中庭の向こうに駆けて行った。何度か振り返り、おじぎをしながら。だけど、その手に腕時計は着けていなかったように思えた。
　俺は手を振りながら、ちょっと汗ばむ温室のベンチに腰掛けたままだった。

　翌朝、ナースセンターは騒がしかった。どうやら昨日に続いて早朝当番だった筈の曾根崎さんが遅刻なのか欠席なのか判らないが、連絡が取れないらしい。
　どうしたんだろう…？
　ふといつものように窓の外を見ると、早朝のまだ静かな時間の中、門の近くに幸恵の姿があった。
　同室の患者もいたので、窓を開けて声を掛ける事は無理だ。
　幸恵はこちらを見ているような気がしたので、小さく手を振ってみた。しかし、流石に100メートル以上も向こうに立っていては、こちらの動作なんて見える筈も無くて、反応は無かった。
　しかし、その表情はうっすらと笑っているようにも見えた。
　俺は少し嬉しい気分だった。

　曽根崎さんが事故にあったのを聞いたのは、その日のお昼過ぎだった。

（つづく）

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